うつ  一歩進んで二歩さがる。それでも進んでる!

『考え方を治す。』


 先日、カウセリングを受けてある私の考え方の歪みに気がつきました。

コンビに買い物に行った時の事です。レジで若い男性の定員さんが、50代くらいの女性に注意していました。女性が、物の置いてある場所が分からなかったのを注意していたようです。注意というより『怒って』いました。そこで皆さんはどんな感情を抱くのでしょうか?

「はぁ・・・怒られてやがんの。」と心で笑いますか?まずこんな事を思う人は、間違いなくうつ病なんかにはならないでしょう。なるはずがありませんよね・・。

 「急いでいるの、早くして欲しいな・・。」これについては、私も時々思います。

 「お兄さん。怒らないでやって・・・。」とも思います。

問題は、

 女性が怒られているのを見て、

「私も怒られている。」

というような誤った感情を抱いてしまう事なのです。女性に同情みたいな思いをするのはまだいいかもしれません。しかし、この感情は、明らかに自ら余分な負の感情(ストレス)を作ってしまっています。先日も書きましたが、私が世の中にびくびくして生きている中での現れる、悲しいのかな自らが起こしてしまう現象なのでしょうか・・。

考え方の歪みは、これから生きていくために直すところは治していく。』

そしていろんな弱い心の部分も、この寒々とした世の中を生きていくためには、強くしていかなくてはいけないかなとも思っています。

 でも、「はぁ・・・怒られてやがんの。」という人間には私はなりません。絶対に!

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『うーん、考がえちゃうなぁ・・。』

最近、皆様の目にもとまったのではないでしょうか。今朝も新聞の一面広告で掲載されている、


 『ボクのお父さんは、桃太郎というやつに殺されました。』

うーーん、考えさせられます。物事、一方からだけ見ていてはいけない。


 光は、闇があって初めて『光』という存在がわかりえます。

 善は、悪があるからこそ初めて善という『存在』を知りえることができます。



 どちらが『いいもの』『わるいもの』ではないのです。


 お互この世に我々に必要があるからこそこの地球に(私たちの成長のために)存在するのです。 


 
 

「仕方ないのかなぁ・・。」 パート2

 先日紹介したバンド『男闘呼組』にこんな曲があったのを思い出しました。当時も好きだったのですが、今改めて聴いてみるとなんか違った味わいがあります。今の自分と照らし合わせているのかな・・。言ってることは極シンプルなんだけれどなにか心に染み渡ってくるようです。(年とったのかなぁ・・。)


                        『男闘呼組・不良』←動画が見えます。


ドアを開け 街角に出れば
 陰口と噂の日々だった

 季節の吹き溜まりに
 逃れながら考えてた

 涙迷う君が
 俺と同じ眼で見られる事

※大人に背を向けて
 死に物狂いで生きる Oh・・・
 この俺を・・・俺だけを
 縛りつけて 責めればいい

 逆らって傷ついてもまだ
 クソ食らえ 負けたくはなかった

 見飽きた街の向こう
 何があると 信じながら

 君を連れてゆける
 勇気まではないと気付いた時

 若さは 言い訳の
 繰り返しだったのかと Oh・・・
 悲しい程・・・ちっぽけな
 自分がただ 悔やしかった

※REPEAT




「仕方ないのかなぁ・・。」

 
 私は、仕事で接客をする事があります。別れ際には、深々と頭を下げています。当たり前の事なのでしょうが、私の心の中では必要以上にしているという思いはあります。感謝を丁寧に表現したいと思っています。挨拶は、目上であれ、目下であれ先に挨拶をしています。挨拶は、人としての基本です。子供には、挨拶と箸の持ち方だけは厳しく教えているつもりです。そんな生活の中で時々想う事があります。

 
「俺って人に媚びているなぁ・・・」

って。

 どこかで、世の中に怯えている自分がいます。また、療養中みたいに世間から疎外されたらどうしようって・・。疎外といっても、勝手な自分の被害妄想なのだけれど・・。きっと、とにかく世の中に敵を作りたくないという感覚がどこか自分の奥底にあると思います。見捨てないでくれみたいなぁ・・。

 「媚びている。」と思って日々の生活を送るのは、私の本意ではありませんし、止めるつもりです。でも、この病気をしてしまったのなら、自分を家族を守るためには、どこかでそう想っていても

 仕方ないのかな。

と感じています。

「嬉しい出来事・・・。」

  先日診察に行った日の出来事です。窓口で一人の女性が事務の方と話していました。聞こえてきた話だと、遅れてきたことをわびているようで、てきぱきと社会人らしい態度をとられていました。ちょっと気に係り、後でちらっと彼女の顔を見てみました。

                       「あっ、やっぱり。」

 彼女は、顔なじみになった一人でした。以前にここで書きましたが、顔なじみといっても話したとかではなく、何度か通院しているうちに私が顔を覚えたということです。そして、しばらく会っていないけどどうしているのかなぁ・・という思いも以前ここに記しました。
気になった理由・・。当時、彼女は、紙袋に何かを入れてそれを飲んでいた。その行動は、私の推測の域を出ないのだけれど、たぶんお酒を飲んでいたのだろう・・。

今度彼女と出会っても、もうそんな彼女の姿は見ないと思います。

その日、なんだか嬉しい気分で病院を後にしました。

『骨太ロック・・・』


 なにげない生活の中で、ふと思い出したときに彼らの楽曲を聴いています。清涼感と透明感のあるボーカルの歌声がとても気に入っています。

『 スターダストレビュー  夢伝説 』

 最近では、ビールのCMで彼らの曲が使われましたね・・。





 さて、もう一組紹介したいバンドがいます。このスターダストレビューを知るきっかけとなったのは、ドラマの中で確か挿入かに使われていてそれを聴いたからでした。そのドラマは、「ボクの姉キはパイロット!」という作品で1988年に放送されたものです。内容は忘れてしまいましたが、出演者が浅野温子さんとご紹介したいバンド『男闘呼組』の四人でした。
男闘呼組は、あのジャニーズ事務所の出身なのですが、なかなかどうしてアイドルらしからぬ『骨太ロック』な歌を歌っていて、当時レンタルはしては彼らの曲をよく聴いていました。今でいうと「ハウンドドック」に似た感じ?かなと・・。

今、復活すれば今の音楽業界で、彼らと似た立ち位置の人がいないような気がするので、結構受け入れられるのではと素人ながら勝手に思っております。

                 『男闘呼組




「目指すべき姿」

  20年近く前にある方からいただいた言葉があります。


「過去は過ぎ去った事。未来はこれからから来る事。あなたは今を生きているのです。」 


 私が生きているのは、過去ではなく、未来でもなく、今この瞬間のみである。

過去にとらわれず、未来におどらされず、今を生きていきたい。

今、私はそう生きていきたいと思い、そういう人になりたいと努力し続けたいと思います。

「人への思い方・・・・。」

 先日、テレビ番組で両腕の無い20代位の外国人女性の生活を紹介していました。彼女は、両腕が無いのにかかわらず両足を器用に使い、食事・着替え等ほぼ自分の事は自分できると語っていました。足でピアノを弾き、飛行機を操縦する姿を見て「すごい!たしたものだなぁ・・。」と驚き、そして普段の自分と照らし合わせ、努力が苦手な自分を反省しました。
 病気はする前までなら「両腕が無い彼女が健常者となんの変わりのない、いやそれ以上の事をこなしている。すごい。」と思っていたはずです。確かに彼女は、人の何百倍、何千倍の努力をしたのでしょう、そのことに対し無条件で私は尊敬に値すると思います。でも今は、

「彼女は、私のできない事ができる人、ピアノが弾ける、飛行機が操縦できる。すごい!」

 と感じています。

以前にもここで書きましたが、私は楽器ができる人がうらやましいと思っています。自分が何かしらの楽器を弾けたのならそれは楽しいだろうなと思うからです。

 私は、彼女を障害者というくくりで見る前に当然ながら「一人の人。」として、健常者と同様に、なんの区別を必要とすることなく、彼女を尊厳したいと想うのです。そう思うことこそが、真に彼女を尊敬するということになると私は思うからです。

でも、自分でも偉そうな事を言っているなと思ったりします。それは、彼女がどれだけの苦労・苦悩があったのかを知ったかぶりしている自分がいるような気がするからです。

 病気をしてから、本を読んだりいろんな人と話をすることを通して、以上のような風に物事を考えるように変りました。彼女のお母さんがこう言っていました。

  「昔は、娘の出来ないことばかり探していました。でも今は彼女の出来ることを探しています。」 

と・・。

 いい言葉だなと思いました。

『あーー生きている!』

 療養中何度か嫌なこと忘れようと酒を飲んだことがありました。療養中は、薬を飲んでいる身で飲酒なんか『ご法度』とは百も承知でした。当然、気分など晴れるわけがなく、せいぜい二日酔いが残るのが関の山でした。

 風呂上りの一杯を

                              『あーー生きている!』


と体験するにはそれなりにそれ相応の対価が必要です。社会人なら仕事を終えての対価、一日のご褒美が『あーー生きている』となるのでしょうか・・。これは私の例え話になるわけですが、皆様にもこんな話しは当然あるかと思います。

 変わりたいのに変われない、どうしようもない日々中『もがいて・もがいて』でいつも明け暮れてしまっている。そんな毎日ならこんな体験は、久しくしていてないと思います。いや、悲しいのかなできないと思います。

 でも、今は想います。『もがいて・もがいて』の日々でしたのなら、確実にその目は前を向いています。それでも前を向いていると考えます。だってそこに、

                          『どうにかしたい。』 

という意思がある(存在する)からです。
 


 きっと治るよ!いつか治るよ!なんて私は身勝手・無責任なことは言いません。でも確実にその目(ここから脱却したい。)は、前を向いています。

 もがきましょう。たくさんたくさんもがきましょう。そしてその先に確実にあります。


                               『あーー生きている!』

という体験・実感がそこにあります。それをもう一度体験しようじゃありませんか!!