うつ  一歩進んで二歩さがる。それでも進んでる!

『のび太のくせにいいやつだ!』

 映画「ドラえもん」からのひとコマになります。ぐうたらののび太は、このままでは未来にジャイアンの妹のジャイ子と結婚する事になってしまうと聞かされます。(ジャイ子にとってはこんな失礼な話はないと思いますが・・)のび太は、相手がしずかちゃんになるようにと現在と未来とで頑張ります。功を奏してか何とかしずかちゃんと結婚するということに未来がなるようになりました。結婚式前日、のび太とドラえもんはしずかちゃんの家をのぞきに出かけます。しずかちゃんは、パパを前に「明日早いから寝るね・・」とその場を立ち去りますがどうも何か言いたそうな顔です。よせばいいのにのび太とドラえもんは、ポケットから思っていることを聞けるという道具で本音を聞きだします。私は、「長い間・・」と言いだすのかなと思っていたらパパの前で「結婚を辞めたい。本当は不安なの、やっていけるか心配なの」と言います。いくら大人になったといってもあの、のび太だからなぁ・・と私も思いました。パパは、しずかちゃんをベランダの外に連れ出し、星を見ながらこういいます。

 のび太君は、

 『人の幸せを願う、人が悲しんでいたら一緒に悲しむ。彼なら大丈夫だ』

と・・。

 私は、この言葉を上映後に子供に「パパはいいこと言うね」と言ってからもう一度この言葉をいい聞かせました。はたして子供にはどう届いた(響いた)のかわかりません・。でもゆっくりと確実にこの言葉の意味(真髄)を伝えていけたらなと想っています。

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『ごきげんようという言葉(言霊)の意味』

 朝のNHKテレビ小説「アンと花子」のお話になります。苦学生だった主人公のハナは、多分、今で言うところの「奨学金制度」で名門の女学校を卒業しています。ドラマは、昭和初期のお話でハナは、ラジオ局で子どもたち向けの番組でアナウンスをしております。そこではハナは、番組の最初と最後に「ごきげんよう」という言葉を入れたいと上司に提案します。
上司はハナにこう言います。

 「私の妻もあなたと同じ女学校の卒業生です。朝から晩までことあることに「ごきげんよう」と言っていました。ハナさん、あなたは確か奨学金制度を利用した学生さんだったそうですね?ごきげんようを使いたい気持ちはわかります。」でも

 ごきげんようの似合う女性と似合わない女性がいるのではないでしょうか?」

 と言います。

ハナは、こう答えます。

「そうでしょうか?ご機嫌ようは様々の祈りが込められた言葉だと思います。どうかお健やかにお幸せにお暮しくださいとういう祈りです。人生はうまく行く時ばかりではありません。病気になる時もあるし、何もやってもうまく行かない時もあります。健康な子も病気な子も大人たちもどうか全ての人達が明日も元気に無事に放送が聞けますようにと祈りを込めて放送を終わらせたいのです。」

 と言います。

 上司の「てめいみたいな貧乏な人間にそんなハイカラな言葉は似合わないのだよ!」という言葉にハナは、自分の想いで返しました。

言葉とは、

                         『言霊(ことだま)』


とも言うそうです。それは、発する人の想いも込められて相手に伝わるそうです。

そこに、
「優しさがあれば優しさとして、憎しみがあれば憎しみとして・・」

相手に伝わります。

 いつだった私の心の師がこう言っていました。

                    『女性が綺麗になる簡単な方法はなんだと思いますか?』

答えは、

                    『人の悪口を言わない事』

だそうです。

 何も女性ばかりのお話ではないと思いますが皆様はどう思われますか?

いつだったかマツコデラックスさんが有吉さんとの番組の中で悪口の事についてこう言っていました。

『だってしょうがないの・・みんなそれを言って生きているのだから(どうしようもない生き物)・・』と。

私もそう思います。でも私は、人対して「悪口」言わないようにしています。井戸端会議でそういう会話になってもただ聞く側に徹するようにしています。100%そうしているとはと言い切れないところもありますが・・。


『悪口を思えば貧しい心がひとつ増えます。それを言葉(言霊)にすれば貧しい心が2倍、いやそれ以上となってあなたの心は貧しくなっていきます』

とりあえず悪口を想ってしまっても仕方ないのと思います。でも、それを言葉(言霊)にしない事から始めた方がきっと幸せに生きられんじゃないかと私は思っていますし、努力もし続けています。

『教えてくれるのは誰・・』

 いわゆる「スピリュチュアル」なお話になります。興味ない方も少々お付き合いください。

・お盆が過ぎて川や海に入ると河童に足を引っ張られる。

 私の田舎に伝わるお話ですが皆さんも耳にしたことないでしょうか・・。現代的の解釈は、お盆を過ぎた頃は海にはくらげが出るので入るのは避けたほうがいいとなるそうです。

・トイレには安産の神様がいるので妊婦はトイレ掃除を率先してしなさい。

 少し前にこの事を題材にした歌が流行りましたね・・。現代的の解釈は、「妊婦でも動いた方が体にいい」トイレは狭い所で窮屈ながらトイレ掃除は、妊婦には自宅でも適度の運動になって妊婦の体にも良いからとなるそうです。

・トイレや台所の周りに植えられている「南天」

 寒い季節に赤い実を付ける植物なのですが、トイレや台所の周りに植えられているのを見たことありませんか?田舎に行くとよく見られる光景です。これは、「難を逃れる」といっていわゆる「不浄の場所」といわれる場所に昔から植えられています。

 なぜかこの三つが頭にひらめきました。どれもこれも昔から伝わるお話です。科学的根拠などそこには全くありません。でも、昔から伝わるお話は「意味」があって子子孫孫に伝わっていると想います。ですから、私はそこに科学的根拠が微塵になくとも、昔ながらの解釈をそれはそれとして少なからず私は信じています。


 また大きな雨による甚大な災害が広島でおきました。少し前までおきていた異常気象が、今の日本では当たり前におきるようになりました。それを「超異常現象」と呼ぶそうですが、このままではこの「超異常現象」でさえ日常的な出来事になりそうな気がします。人間の慣れとは恐ろしいことで、この現象でさえ普段にありふれた事と認識してしまうようになってしまうのでしょうか・・?本当に末恐ろしい出来事が日常的に起こっているのが今であり、この時代「今・この時」です。

 地球を一個の生命体とする「ガイア論」という考え方があるそうです。それを信じる・信じないは別として、今おきているこの現象は、地球からのなんらかの

                            『警鐘(叫び)』

ではないでしょうか・・。

・好き勝手に緑の地球を汚しに汚したのは紛れもなくこの地球に住む人間。

・見栄、虚栄、嫉妬、金、性・・。もろもろの欲望がおこしてしまった昔からあった日本人の日本人としての「精神社会の崩壊」。我さえ良ければいい、ちょっとましなら家族さえ幸せなら良い・・という考え。

誤解の内容に強く申し上げますが、被害にあわれた方々が悪人だから被害にあったと言っているのではけっしってありません。


 私たち人に起こるすべての現象は、

     「その時、その人に、その必要があるから、ベストのタイミングでそれは必要な分だけ起こりうる」

そうです。良いことも悪いことも

                     「あなたに必要があったからあなたのために起きる」

そうです。ならば、私がうつ病になったのも私に必要があったからとなります。

                     「今のあなたの生き方(考え方)は間違っていますよ!」

だから、病気を通してそれを私に教えてくれたとなります。

 あんな「うつ病」の体験も意味があって私におきるべきして起きた・と私は解釈しています。(そう努力しています)

 失ったものも多かったけれど得られたものも多いから・・・。

『夏の終わりのハーモニー』

 この曲は、どんな野郎同士がデュエットしてもなぜか「ハモッっているように聞こえる」という不思議な曲です。

 よくカラオケで歌った好きな一曲です。



 追伸

 皆様からブログのお礼をいただく事があります。ただただ

                                     『感謝』

です。ありがとうございます・・。

『若人に幸あれ!』

 夏の甲子園の季節がやってきました。毎年、「一試合位は最初から最後までテレビで試合を見るぞ」とプロ野球の好きな私は決めるのですが、なんだかんだで実行せず終わります。

 その甲子園で信じられないプレーが起きてしまったそうです。ここから先、野球のルール等がわからない方は「ごめんなさい」、何となくの私の表現で感じていただければと思います。
 場面は、11回の裏で1対1の同点、1アウト走者は1塁、3塁です。裏の場面ですから守備側は1点入ると負けとなります。ですから守備側は攻撃側よりより緊張が強いられることになります。信じられないプレーは、この守備側のセカンドの選手に起こりました。このセカンドの選手に球が転がってきた場合、捕球してからキャッチャーに投げるか?二塁のベースに入ってくれたその選手に投げるか?の二者択一になります。議論の別れるところですが、多くはキャッチャーへ投げます。後者のセカントの塁の人物に投げるには「失敗したら負けになる(ゲッツーを取れない)」というリスクを伴いますのでよっぽどの確立でないとしないプレーかと思います。監督は「臨機応変に対応しろ」と指示をだしていたそうです。そしてこのセカンドの選手のプレーが起こりました。彼は、キャッチャーでもなくセカンドに入った選手でもなく「ファースト(1塁手)」に送球してしまったのです。彼には、酷な言い方ですがあり得ないプレー(行動)をしてしまったのです。当然ですが試合は守備側(彼のチーム)の負けです。

 彼の弁です。

 「バウンドが変わって捕り損ね、頭が真っ白になった。パニックになり、知らぬ間にファーストに投げてしまった」

 そうです。

 甲子園に出てくる彼らですから、それは相当の努力をしてきたことくらい素人の私でも容易に想像できますし、「この時はこのプレー」という反復練習は何百、何千回としてきたでしょうに・・。それが多分今まで一度もしたことがない行動をこの甲子園という舞台でしてしまったのでしょう。

   「エラー」をするとはまた違ったことが起きてしまった・・。それは特別な出来事が起きてしまった・・。


私は、今日スポーツニュースを見るのをやめました。彼を想うと切ないからです。

これから彼には多くの辛いことが起きるでしょう・・(誹謗、中傷、自責の念、メンバーへの想い・・)。彼の心はいつ心が晴れるでしょうか?明日、明後日ってわけにはきっといかないでしょう。一日でも早く前を見つめられるようになることは望みます。でも、きっと多くの時間がかかると想います。きっと社会に出てから多くのことを学んで、沢山の人と出会いそこから人を知って、そして心は動いていくんじゃないかと私は勝手ながらに想います。


     『多くの悲しみを知った人はきっと人に優しい人になれる・それは幸せな人になれる』


と、私は確信しています。


『笑顔を作るという事』

 ここ5,6年でしょうか。我が家では、朝のNHKの連続テレビ小説を録画して夕食の時間に見るのが日課になっています。ひとつだけ「嫌」とまで言いませんが出来れば触れずに通り過ぎる事ができないかと思う内容があります。過去のお話となれば、「関東大震災」と「戦争」です。どうしても見ていて悲しくなります。今放送している「アンと花子」も例外でありませんでした。主人公「ハナ」の妹は、震災の当日プロポーズをされましたが、震災で彼を失う事になります。そして、彼女はその時から笑顔も失いました。

私は、療養中に「笑いなさい」とある方から言われました。そして勧められたのが「綾小路きみまろ」さんの漫談CDでした。あの中年以降の女性を題材にしてユーモラスにお話されるきみまろさんのCDです。実際に聞いてみました。面白かったです。でも心に余裕がなかった私には心から「笑う」ことはできませんでした。笑えなかったです。

私の心の師の方はよくこう言います。

「辛い時、悲しい時こそ笑いなさい。葬式の時に笑うのはいかがのものかとは想いますが、辛いから悲しいからといってその時に笑ってはいけないとはあなたの勝手の思い込みです。笑ってもいいのです。」と・・。辛い時、悲しい時に鏡を見て無理やりほっぺたをつり上げてでも笑顔を作り笑えと言うのです。私は、「その先に何があるのでしょうか?」と想い療養中の私に出来ませんでした。無理でした。笑えませんでした。

でも、今になって思うでのですよね。今だから想えるのですよね。やっぱり


                                 『笑顔』


にはパワーがありますって。人の笑顔っていいですよ・・。療養中に笑えって言ったって無理かもしれませんが、無理やりというか、機械的というか、きみまろさんのCD聞くとかお笑い番組をなんとなく見るとかでも無理やりでも「笑う」という行為をしてみるといいと思います。そこには、意味も持たずに嫌や嫌でもいいのです。そしていつからかきっと何か変わってくると想います・・。最初は、機械的な行為でもその後に何かしらの「パワー」みたいのを与えてくれると想います。抽象的ですが何かの「パワー」を・・。

                        『辛い時、悲しいときこそ笑いましょう』

 何か変わっていけるはずです。機械的にでも自分を変えてみましょう。後から何かがきっと変わってくると私は信じます。


 毎回なのですが元気になる一曲ということで


さりげなくですが詞に深い意味があると想います。